「書評」なんぞというたいそうなものじゃありません。「批評・評判」もどちらかと言うと苦手。
ま、無理矢理「おすすめの一冊」ってとこですか。

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■ あの世はあった

記事年月日 2007/05/07
作者名 三浦正雄・矢原秀人 
ジャンル 実録 
出版 ホメオシス 

あの世はあった
表題から察するとおり「あちら」のお話しである。
日本文学史上に名を残す文豪、世界史の分岐点に立つ知識人の超常体験12話が収められている。文学者・三浦氏とジャーナリスト矢原氏の共著。体験者自らが筆にしたり、雑誌等の紙面に公開されたりしている対話を丹念かつ忠実に掘り起こし、加えられた説明も必要最低限に抑えられている。共著者が各々のスタンスを崩さずに執筆にあたっていることで、とかく「この手」の作にありがちな一種「得体の知れなさ」を免れている。

さて、これら12偉人たちの体験を「事実」であるか「否」かという問いについていうなら、それを問題にすること自体が愚かと言わざるを得ない。体験者らにとっては「自らの内なる真実」であったとシンプルに受け止めるのが最も自然で美しい。
とすれば、それら体験を苦心惨憺して「科学的に」説明しようとすることも、同じく虚しいことではある。時々の体調がどうであったとか、潜在意識下にある既視情報がどうのといったところで、当のご本人の「内なる真実」を探し当てることは決してないのだ。

たとえば、山道に密やかに咲く草花は、そこを歩けば必ず誰しもが見出せるとは限らない。たとえ網膜にとらえられたとしても、愛に裏打ちされた感性が視神経とリンクされていないと、出会いの感動を得ることはない。
スピリチュアルな世界も同質の呼応態勢を必要とする。求めて求め得ず、求めずとも訪れるものでもある。
そもスピリチャリティーそのものを定義することさえ困難なのだ。WHOの例会で常に議題に上がりながら、ついに定義されることなく、従ってその必要性をオフィシャルに謳われることなく終いえていることを聞くに及ぶまでなく、「知・理」によって認識され得るものではないのだ。
読み終えて「心」に残るもの、それをシンプルに感じ取られるがよろしかろう、と思うところである。


記: 2007-05-07