「書評」なんぞというたいそうなものじゃありません。「批評・評判」もどちらかと言うと苦手。
ま、無理矢理「おすすめの一冊」ってとこですか。

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■ 陋巷に在り1〜13巻

記事年月日 2010/09/26
作者名 酒見賢一 
ジャンル 歴史小説 
出版 新潮文庫 

陋巷に在り〈1〉儒の巻
陋巷に在り〈2〉呪の巻
陋巷に在り〈3〉媚の巻
少々の覚悟を以って読み始められたし。

何しろ13巻もある。その上、第1巻「儒」の巻はかなり手こずる。ルビがなければ到底読めない恐ろしく画数の多い漢字が続出する。「あれなんて読むんだっけ」などと読み返したりして、一向に読み進めなかったりする。

中国古代史・春秋時代が舞台で、そのあたりの時代、政治、文化背景の記述も多いので、読んだ端からすっぽ抜けるようなオツムだと苦労のあまり投げ出したくもなる。

「陋巷」とは巷・ちまただが、きれいなおねえさんやお兄さんが出没するネオンまたたく酔街のことでは無論なく、いえばドヤ街。それもふんぷんたる生活臭に満ち満ちた「貧民窟」のことだ。かの孔子の1番弟子顔子淵・顔回がしばしば口にした「我、陋巷に在り」が表題といえば、わずかでも物語の模様がわかるだろうか。

第1巻も半ばを過ぎたあたりから、読み進むスピードが徐々に増し、5巻、6巻と読み進めて気がつけば寝食も忘れて没頭する。
様々なことに境目が曖昧模糊として、歴史と神話、学、宗、呪も混沌にある時代の空気を知らず文面から吸い込んで、漢字など読めなかろうが、時代背景が頭に残らなかろうが、そんなことはどうでもよくなり、あたかも憑きものでもついたかのように読み耽ることになる。それこそ筆者の「媚」術に落ちて、というところ。

何かに感応するということは、それ以前とは違った何かを内に蓄えることに他ならないとすれば、本作に触れることによって人は確かに変わる。作中で筆者が「書き続けるうちに自らの作品から教えられ、学び取るものは大きい」と言うがごとく、読み手もまた多くを得るのだ。

「『儒』とはそもそもすなわち礼、なかでも『喪礼』を正しく行うことであった。それを段どる特殊な集団を、霊・神と人とのインターフェーサー・『儒者』といった」
来歴を知り、あるいは春秋時代の時代背景に触れると、社会科の教科書に記載されている範囲でしか「儒教」について知らなければ、それは驚嘆する。
そういった知識・情報の獲得は言うに及ばず、作品に通低し横たわる「善きもの」「尊きもの」「崇めるべきもの」に内在する同質の「鼓」が同調して鳴るのである。

人は母の胎内で原始から遡りきて人として生まれるということが象徴するように、歴史と神話が混沌としていたころから悠久の時の流れの中で祈りとともに連綿とつなぎ続けられた命のその先端に今ある自己存在をはっきりと識る。魂の故郷として「古代」を感じる。
人が時の果てに失ってしまった科学を超えた力が読み手の中に蘇ろうとするのだ。

読み始めた時は「13巻もあるのかよ?!」だったのが、読み終えると「まだ続いてもいいんじゃない?!」と必ず続編を期待してしまう。歴史小説に浸った者の宿命でもあろうが、そうばかりでもない。太古に生きた神々が再現しようと働くに違いない。

いや、マジ、続きが読みたい。
「陋巷を出てしまっては『陋巷に在り』ではなくなってしまう」などと言わずに、「旅」の巻、「別」の巻、「帰」の巻、せめてそのあたりまで…

確かにこの「媚」が解けるのには時間がかかりそうである。



記: 2011-01-13