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はいコチラ、酔っぱライ部
共に笑う喜び
2013 / 11 / 05
先日足を運んだ落語会はこちら。
真田小僧 入船亭遊一
権助魚 林家彦いち
真二つ 柳家花緑
三年目 橘家圓太郎
試し酒 柳家市馬
ここ数年、僕が好きな圓太郎師匠と市馬師匠はやっぱり安心して聴ける噺家さん。
どちらも何度も聞いている噺なのにやはり笑ってしまう。聴いていて「あ、このあとにはこう言う」とわかっていても「やっぱり言った」と笑ってしまうのは演者の力だ。
一方「真二つ」は映画監督・山田洋次さんの作で、当日のプログラムによると祖父・五代目小さん師匠のために書かれたこの演目をかけるに際し、山田洋次氏の手直しを経て花禄師匠が演じるのはこの日が2回目とか。
ネット検索をかけてみてもひとつも出てこないので小三治師匠が演じた高座を聴いたような気がしていたのはどうやら記憶違い。先代小さん師匠との対談も併録された文庫本で読んだだけで、生の高座で聴くのは僕にとって初めてだったらしい。
文章で読んだときは「うまくできた噺だな」と思ったけれど、この日の高座を聴いているとちょっと焦れるような部分があり、それがサゲを重くしてしまうような感じがあって少々辛かった。これからさらに練られていくんでしょうね。5年後くらいに機会があったらまた聴いてみたい。
さて、今回書こうとしているのは正確には落語のことでない。客席での話である。ときどきいるんですよね。
「噺の先回りをして笑う人」
けっこ勘に障るんだ、これが。アレはどういう心理なのか。試しにちょっと推論してみたい。
今回は「水菜と油揚げのサラダ」。
サラダに鍋にと水菜が美味しい季節です
客席に座って噺を伺う。
落語を聞いて早やン十年は越えようというこちらのこと、冒頭で書いたようにたいていの演目なら筋立てのあらましはわかっている。それでもなお笑えてしまうところが落語の醍醐味のひとつで、もちろん歴は長くても初めて聴く噺もあるからそうでないこともあるけれど、既知の演目ならあるいは自分で工夫するタイプの噺家さんなら不意打ちもあるかもしれないものの、お手本通りに勤めるタイプの高座であれば「次に何を言うか」までわかっているのである。
一方、高座の前にネタ出し(開演時に誰がどの噺をかけるかが知らされている)してあればその限りでないが、寄席の定席のように「何をかけるか始まってみないとわからない」場合は客席でもその部分を探るような空気があるのも事実。
たとえばマクラから噺に入る。もちろんマクラだけである程度の推測はできるのだが、独特の導入ならさておき、
「ご隠居さん(あるいは大家さん)、今日はちょっと聞きたいことがあるんですがね」
と始まると大変だ。「おや『道灌』か?」とか「いや『千早振る』かな」、それとも「やや『鶴』ですか?」、あるいは「ふうむ『短命』かも」などと悩んでしまう。
あるいは
「おい与太、こっちこい」
と来たら「む? 『道具屋』?」、もしくは「え? 『大工調べ』!?」はたまた「この人なら『孝行糖』か?」......と脳内の「落語データベース」に照らし合わせて客席のココロは千々に乱れる。そして続いてのひと言を鍵に演目がわかって客席は落ち着くのである。
そこに「くすぐり」(笑わせる一言)があり、また呼吸の良さがあって、客も噺家もスーッと噺に入っていく、それはあたかも「阿吽の呼吸」のようなもの、すなわち高座と客席、その双方で「落語を語り、そして聴く空間」を構築しているといってもいいのである。
そこで件の「先回りして笑う人」のことを考えるのだ。
たとえば「試し酒」ならこんな感じである。
商いに出向いた旦那についてきた大酒呑みの下男、九蔵さん。
出先の旦那から
「おまえさん、ずいぶんお酒が好きなんだってねぇ。やっぱりいちばん好きなのは酒かい?」
と聞かれて
「うんにゃぁ、いちばんが酒ってことはねぇね、やっぱり金だな」
「ははぁ、やっぱり金かい。ならお金を貯めて国へ帰り、田地田畑でも買うつもりかね」
「いや、おらぁ田地田畑なんで買うつもりはねぇね。おらぁ金貯めたらそっくり呑んじまうだから」
ここで客席がどっと沸く。沸いていいのは「そっくり呑んじまうだから」と言った後である。しかるにかのタイプの御仁は「田地田畑でも......」のクダリで「あはは」と笑うのだ。
早い。早すぎる。
おそらくは
「オレはこの噺を知っているよ」
という態度の表明である、もしくは「ここ笑うとこ」というまわりへの衆知である。
それはクシャミをしようとした瞬間に鼻をつままれてクシャミできなかったときの気持ち悪さ、またアクビをしようとして口の中に指を突っ込まれてアクビできなかった(これね、ホント気持ち悪いですよ。お試しをw)不愉快さにも似てやるせない。
ようするに「自己主張が強い」という一言に集約できるのだろう。しかし不思議なのはなぜそれほどまでに客席で何かを表現しようとするのかと言うことだ。あるいは高座にいる噺家に対して「ほらほら、オレは笑うところ知ってる、キミの味方だよ」とおもねる姿勢なのかもしれない。そんなことをして何の意味があるのか。おそらくは。
満足感だろう。(と、ここ池波正太郎風)
普段はCDやレコード、またテレビラジオの録音を一人で聞いているのかもしれない。
いや、おそらくそうだろう。もし「笑う空間」を共有する人がそばにいれば「同時に笑うこと」に価値を見いだしこそすれ、「相手に先んじる」ことが目的にはならないはずだからである。そんなことをしたら相手との共有空間が崩壊してしまうのだ。それほど、「笑う空間」の立ち位置は微妙なものだと痛感するわけである。その日常的な経験がないから、たぶん客席のなかで自分の存在理由、レゾン・デートルを求めるのではないか。これが僕の推論であります。
エライところにレゾン・デートルが出てきてしまったけれど、「もって他山の石」という部分もないではない。よく噺の中に出てくる「モノマネ」の件などがそうである。
たとえば林家たい平師匠が噺の中で先代・中村歌右衛門や市川團十郎、中村福助(次期・歌右衛門)のモノマネ(上手い)をする。または喬太郎師匠が立川談志師匠、志ん朝師匠、圓生師匠の口を模写する(これも上手い)。この時、客席の年齢層がやや下がる傾向にある昨今、全員が先代・歌右衛門丈や圓生師匠の口跡を十全に知っているかどうか疑わしい、というようなことがある。
そんな場合、笑ってしまったあとで自分でもやや後悔するのだが、どうも「他の人は知らないかもしれないけど、僕みたいに知ってる人もいるから安心してください」という意識がゼロではないような気がするのだ。それは声の大きさに表れる。どうも不自然に笑ってしまったような心持ちがすることがあって恥ずかしい。
あるいは実際それはほんとうに「知っている人」が少なかったので自分の声が必要以上に響いてしまった結果そう感じた、という可能性だってある。もちろんそんなことばかりを意識して客席に座っているわけではない(そこまで自意識過剰ではないと思う。思いたい)から、無用に気を回しすぎているだけなのかもしれない。
それでもなお、「楽しく共有できる空間を作って壊さぬような配慮」をもって客席には座っていたい、そしてそうすることが手放しで感情を解放して笑えることにつながるのではないか、と思う次第。
これをワタクシの所信表明演説として述べさせていただき、今回のペンを置きたいと思います。ご静聴、まことにありがとうございました。
と、そんなややこしいことを書いた今回の「かんたんレシピ」はさっぱりと「水菜と油揚げのサラダ」。水菜は鍋にもよく使うけれどサラダで食べてもシャキシャキとしておいしい野菜です。元は京野菜だそうですが、ちかごろはどこのスーパーでも普通に見られるようになりました。あんがい安いんですよね。しかも旨い。なによりです(笑)
てなことで今回はこの辺で。次回は11月19日更新の予定です。
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