本を出した
昨年10月、念願の本を出版しました。制作費は全てこちら持ち。半端ではない金額に、はじめは正直、「こんなにするものか?」と疑問に思わないでもありませんでした。ですがつい最近、商売用に個人でCDを作るという体験をした中で、ひとつのものを生み出すというのがどれ程骨の折れることかつくづくと実感し、これが企業ともなると、やはりそのくらいはかかるものかもしれないと考えを変えるようになりました。
書いたきっかけのひとつとして、「優等生」と呼ばれる人たちに対する世間の目を、少しでいいから変えたいという思いがありました。
阪神大震災の時、被災者の方の声の中にこんなものがあったのを覚えています。「がれきに埋まって動けなくなっていたところを、茶髪のにいちゃんが助けてくれた。不良みたいに見えても、優しいところがあるんや。人を見かけで判断したらあかん」
この手のお話は、世の中の至るところできかれます。そして、その後ろにはほぼ100%、「偏見を持っていた自分が恥ずかしい」「人の良し悪しは頭の良さでは決まらない」といった温かく優しい言葉が続くのです。
そのことについて否定するつもりはありませんが、ただ、それをいうなら逆のパターンについてもいちど考えてみてほしいのです。例えば、ある人が社会人として少々非常識な態度をとってしまったとします。普通ならちょっと眉をひそめられるくらいで済むところが、その人が東大卒であったり「○○博士」と呼ばれる人であったりすると、たちまち「勉強ばっかりできてもねえ」という具合に、行いそのものとは全く違った方向から、冷たい批判にさらされることになってしまいます。
中津さんて勉強できるし、私らのことなんてばかにしてると思ってた。話してみたら全然そんなことない」
これは私が中学生の頃、新しい友達ができると必ずといっていいほど言われた言葉です。私がいつ、誰をばかにしました?全く身に覚えがありません。立候補していないのにも関わらず、班長やら学級委員やらに選ばれてしまったときは、こうです。
「頭いいと特やなあ。特別扱いされて」
幸いこれがいじめに発展するといったことにはなりませんでしたが、まあ、事あるごとにチクチク、チクチクと嫌味を言われることはありました。漢字テストでちょっと間違えただけでも、口元に笑みを浮かべつつ、「天才言われてる割にはたいしたことないなあ」
いいんですけどね、別に。子供のいうことですし、気にしていたら生きていけません。でも、ひとつ言わせてもらえるなら、もしも心にほんの少し余裕があるなら、偏見を持ってはいけないというその温かい志を、マイナスのイメージを持たれている人間だけでなく、プラスのイメージを持たれている人間にも向けてもらうことはできないでしょうか。不良少年と優等生の女の子の恋。対極を為す組み合わせとしてドラマなどでよく使われますが、実はお互いにレッテル(その殆どは事実無根!)を貼られやすいという点で、両者の間には深い共通点があるように私には思えます。
優等生だって人間です。悩みもあれば、失敗だってするのです。優等生はとかく攻撃を受けやすいため、大人になっても発言に非常に慎重になりがちです。つらくてもあまり「つらい」とはいえません。だから私が書かなくては。そんな強い気持ちから世に出したはずなのに、読んで下さった方からは、「心がやわらかくなりました」「癒されました」と意外な感想が。もしかしたら、私はただ人から優しくされたかっただけなのだろうか。その意識が、自分でも気づかない形で文章に表れたのかもしれない。つい考えこんでしまいました。
完全な自費出版ではないため、増刷の際には追加費用は出版社が出します。言い換えれば、「売れる」という確信がない限り、増刷は無いということです。再来年の10月の時点で売れ行きが悪ければ、悲しいかな、絶版。この場を借りてこんな事を言っていいのかわかりませんが…、読んで欲しいです。是非。装丁が大変きれいです。
---------------------------
<著書> 「優等生ものがたり」 Amazon.co.jpへリンク |