タコ・イカ・シイタケ、親、富士山
タコ・イカ・シイタケ、親、富士山。いったいなんぞや?
タコ・イカ・シイタケ、親、富士山。これらは私の、「この世で乗越えられないもの」ベスト3です。順序は…特にありません。
タコ・イカ・シイタケ。私にとってこの3つは、好き嫌い以前に食べ物ではありません。グロテスクの代表、タコ。イカはゴムでしかないし、なんといってもシイタケ。肉厚といい、ひだといい、恐怖さえ覚えます。焼飯などに入っているみじん切りぐらいなら、「これはシイタケではない」と暗示をかけて何とか口に入れることも可能ですが、原形を少しでもとどめていると、もうだめ。まるかじりなどもっての他です。同じ人間でありながら、どうしてこれらのものを食物として受入れる気持ちになれるのか。その不思議に比べたら、「ピラミッドの謎」なんて「へ」という感じです。
次、親。私は子供を産んでいないのでわかりませんが、友人が初めての出産を終えて一番に痛感したことは、自分の母親の偉大さだったといいます。互いに生きている限り、子供は親の年老いていく姿を嫌でも目の当たりにしなければいけません。その過程でとても悲しいできごとがあったとしても、こういった畏敬の念があるからこそ現実を受入れる強さを持てるし、親を「ただの年寄り」としか思えなくなったとしたら、そのことの方がずっとあわれです。親なんて必要ない!そういきがっているうちはまだまだ小さい証拠だし、本当に親を越えた時には、その時は既に、父母は天国の住人に。
時間はどんどん過ぎていく。いつかは越えなければいけない思いながら、結局越えられないもの。親というのはそういう存在だと思います。
三つ目、富士山。東海道のコーナーでも少し触れますが、私はできることなら日本人には、やむを得ない場合を除き富士山には登って欲しくありません。富士山を、軽々しく踏んで欲しくないのです。「ただの山じゃん」それを言ったら、仏像だって「ただの石」ですし、○○億円もする絵画だって、冷静に考えれば布やら紙やらの上にただ色を並べているだけ。私にとって富士山は、理屈ではないのです。有難くて、うつくしいもの。どうしても登りたいのなら、自分は今尊いものの上に立っているんだという自覚を、一歩一歩かみしめながら登って欲しい。日本の宝として、富士山をもっと大切にして欲しいのです。勝手ながら、私からのお願いです。
私は人間には、乗越えられないものがあってもいいと思っています。食べ物の好き嫌いも、多少のことなら目をつぶってもいいのではないですか?せっぱつまれば誰だって、虫でも草でも食べることになるのです。そうする必要のない今ぐらい、好きなものをおいしくたべたい。誰がタコは食べ物だって決めたのでしょう(しつこい)。あれは単なる海の生物で、食卓に並ぶものではないのです!子供の頃、家でタコヤキをする時には必ず端の2列が「りょうこ用=タコ抜き」としてキープされていました。優しい家族に感謝。
※ところで、大阪の家庭には必ずタコヤキ器があるというのは既に日本の常識ですが、逆に大阪以外の家庭では、タコヤキ器は置いていないのですか?そっちの方が疑問です。
何かに対して「参りました」と思う気持ち。今の世の中がもし乱れているとしたら、たぶんそういった概念が、全体的に少し欠けてきていることが原因なんじゃないかな。卑屈になるのではなく、それを謙虚さや思いやりに変えること。私自身、自分の欠点を棚に上げて人をあれこれ非難したがる傾向が多々あるので、スミマセン、気をつけます。
タコ・イカ・シイタケ、親、富士山。原則的に、キノコ全般がだめです。内臓系も苦手かな。いや、教えられること、いっぱいあります。 |