 布施の心
布施の心。私に最も欠けているのはこれではないかと、最近特に感じます。あまり宗教色の濃い話題は憚られる為あくまで一般論として述べさせてもらうと、要は、私はあきれるくらいにケチだということです。
物質的なことを言っているわけではありません。「無一文であっても、たとえば人に労いの言葉をかけたり、笑顔を向けたりするぐらいのことはできるはず。それだけでも立派な功徳である」 おそらくこれこそが布施の本質であり、全くもってその通りであるため、我が身を顧みてはヘコんでしまうこと度々。
「かっちゃん(学生時代の私のあだ名)は誰より優しいと思う」と、言ってくれた友達がいます。ありがたさに涙が出つつ、そうではない自分にため息。本当に優しい気持ちがあるなら、どんなに自分が人見知りをする性格であっても、少なくとも一緒に居合わせた相手が自分のために気づまりに思うことのないよう、その場をとりなそうと努力するはず。逆境にあっても、自分の関わっている人が目の前で落込んでいたら、いたわりの言葉がおのづから口をついて出てくるはず。そういうことが、私にはできない。「この人苦手。しゃべりたくない」「○○さん、しんどそう。まあいいや、今日は機嫌悪いし、放っとこう」 こんなんじゃいけないとわかってはいながら、気がつけばいつも心を自分のためだけに使っている。
以前SOHOをしていた頃、生活苦しく、かけもちで近くの倉庫に品出しのアルバイトに通っていました。そこで一緒に働いていたKさんという女の子。まだ20歳かそこらで、やや気性の激しいところがあり、当時三十路に足を踏み入れつつあった私としては「やってらんない」と正直たまに閉口することがありました。
年は下でもその子の方が先輩だったため、私がミスをした時でも、上の人は「教え方が悪い」といつもKさんを叱りました。申し訳ないとは思いながら、私も強情でなかなか謝ることができず、それでも何とか「ごめんね」と言うと、「気にしなくていいよ、これからも一緒に頑張ろうね!」。Kさんにはすごく好きな人がいて、ある日、彼にひどい裏切られ方をしました。その時でさえ、私がその頃好きだった人とうまくいってないことを知ると、「なかつさん、絶対幸せになれるって。ぜーんぜん大丈夫!!」 … 優しいっていうのはこういう子のことを言うんだろうなと思いました。自分が恥ずかしくなりました。
仏のように生きることは困難だし、煩悩だらけの人生も悪くはないけど、せめて「私はこうだから」という固執を、「相手はどうだろう」という思いやりに変えられる人間になりたい。心を、ほんの少しでいい、人に差し出す強さが欲しい。などと言いながら、年明け早々家族と予定していた食事会を「気がのらない」という理由でドタキャンしてしまった冷たい私。母が楽しみにしていたの知ってたのに。ごめんなさい。
“反省だけなら猿でも”とはよく言ったもの。未熟ななりに、願い新たな睦月であります。本年もよろしくお願いします。 |