
源氏物語
まるで身体が文字の一部になって、物語の中を漂っているような感覚。
昨年暮れから源氏物語を読み出しました。原文と現代語訳を行ったりきたり、ほんとに終わるんだろうかと果てしない気持ちに襲われることもありましたが、慣れるに従ってペースも上がり、2月1日現在、あとはわずか宇治十帖を残すのみとなりました。
光源氏を筆頭として、出てくる男は皆けしからん奴ばかりです。「ここまで人の気持ちを無視していいのか、よい子の皆さんは絶対にまねをしないように」などぷりぷりしつつ、そういったこまかい理屈を、言い方は悪いけれども“踏み倒して”しまうだけの情緒がこの物語には、確かにある。こまかいと言えばおかしな点もいくつかあって、例えば出会った頃には八歳差だった源氏と紫の上が、晩年には十歳差になっている!? さすが平安、男と女じゃ時の早さも違うのねと、軽くは受け流せない私としては、今も正直、胃の辺りが気持ち悪い。
しかし、源氏物語。これまでいったい何人の人を魅了してきたのでしょうか。紫の上逝去のくだりでわんわん泣いてしまった私は誰? これは千年も前に書かれたもので、でもって彼女もとうの昔に死んでいてと、いくら心に言いきかせたところで、かひなし。クライマックス、源氏が亡き紫を、めぐる季節ごとに恋ひ偲び、過去の手紙を全て焼き捨て、出家を前におよそ一年ぶりに公の場に姿を現すシーンは圧巻。人懐っこく冗談好き。泣き虫、わがまま。けしからんのに、なぜにこんなに愛しいのか。それは本編のプロローグにあたる部分、父帝と桐壺更衣の物語が非常にていねいに描かれていることが大きな原因のひとつであると思われます。更衣の死、それを悼む人々。だからこそ忘れ形見の源氏の成長がまるでわが子のごとく気にかかるし、物語中、彼が最後に詠む歌、
もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに
年もわが世も今日や尽きぬる
これだけを見ると「まあ、そうだな」くらいにしか思えないのですが、五十余年の歳月を“泣きみ笑ひみ”共に生きてきた読者にとってはもはや感無量としかいいようがなく、ここに至って源氏物語が「もののあはれ」と評される所以がようやく理解できた気がしました。
しっとり感はもちろんのこと、やや皮肉のこもった滑稽な人物描写もこれまたなかなか印象的で、くすくす、にやにや、一度なんて、腹をよじって笑ったことも。(唐衣また唐衣唐衣…、読まれた方はわかるかな?)そんな至福の時間を過ごしながらも、諸々のエピソードがそれはもう情け容赦なく後ろへ後ろへと追いやられ、もどかしく、うら寂しく、光隠れたまひにし後は足を空にの心地して、また会いたけりゃ読み返せば済むことなのにそういった問題でもなくて、この虚しさをいかがすべきとしょんぼりしてたら京の人々も同じ気持ちで、
『天の下の人、 院(光源氏のこと)を恋ひきこえぬなく、とにかくにつけても、世はただ火を消ちたるやうに、何ごとも栄なき嘆きをせぬ折なかりけり。』『またかの 紫(紫の上のこと)の御ありさまを心にしめつつ、よろづのことにつけて、思ひ出できこえたまはぬ時の間なし。春の花の盛りは、げに、長からぬにしも、おぼえまさるものとなむ。』
せっかくなので、今後好きな姫君のことなど、ぼちぼち述べて行きたいと思います。とりあえずは宇治十帖。早く読んじゃおうっと。 |