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春…桜のピンクとか菜の花の黄色とか?そんな描写に、ずっと違和感を覚えていた。
答えは簡単。あたし、生まれも育ちも北海道。3月だろうが4月だろうが、まだ桜は咲かない。天気予報と共に、各地の春を伝える色とりどりの映像が流れるころ、私は解け始めた雪でぐちゃぐちゃになった地面と戦っている。仕方ないじゃんか。それが北海道の田舎の春なんだから!
…北海道の「田舎」と書いた。北海道にもちゃんと都会は存在する。人口189万人札幌市。ここの春の地面はまだいい。雪が解けだしても、地面はアスファルトだもの。水溜りに足を突っ込んだ程度だ。
田舎の春はそうはいかない。陶芸教室でコネコネしている粘土に足を突っ込む感じ。それが北海道の田舎の春の足音。いや足元。
都会の靴屋さんにパステルの靴が並ぶ時季、あたしの靴は長靴。ホームセンターで買ってきた980円の長靴。誰がなんていおうと長靴。笑われようと長靴。
…ま、この辺りで暮らす人はみーんな長靴だから、誰も笑わないんだけど。さらに言うなら、玄関を開けて見えるのは木と馬だから、人にすらなかなか会わないんだけど。
あたしは、枯れ木の茶色と泥のグレーの、他の土地の人が見たら「春」とは呼べないかもしれないような春の中で、
「もうこの季節ヤダーー!飽きたーーー!」
と発狂しそうになる。毎年のこと。
半年間、草の緑も、木々に色づく葉っぱの緑も目にしないっていうのは、一種の拷問だと思う。大好きなF山雅治さんに、980円の長靴を履いて会わなくちゃならないくらいの拷問だと思う(この際「会えないだろ?」という突っ込みはやめてね)。
妄想まではじまって、気も狂わんばかりのところに、母が帰ってきた。
山歩きの好きな母の足元は、もちろん長靴。年季の入った長靴。長靴には、泥のコーティング。出かけにかぶっていた帽子を逆さに抱えている。
「これ、出てたワ」
母は、帽子を差し出し、にんまり笑った。途端、あたしもにんまり笑った。中には、薄い緑色のまあるい塊がいくつか。
それは、ふきのとうだった。冬の間も、大地の力を借りて春が来るのをじっと待っていたふきのとうだった。

その夜、ふきのとうが食卓にのぼった。
まず、ふきのとうのてんぷら。葉を一枚いちまい丁寧にはがして、さっとあげる。塩でいただくのがお勧め。衣から透き通る、薄緑が優しい。サクサクッ。口の中で音がして、ほろ苦さが広がる。そして笑顔が広がる。
それから、ふきのとうの佃煮。葉を適当な大きさにちぎってお味噌とお砂糖と少しのお酒で煮込む。分量は母の頭の中。母の舌の記憶。
炊き立てのご飯にのせていただく。ほんの少しずつ。味噌に凝縮されたふきのとうのほろ苦さと甘み。湯気のたつご飯。
「く〜〜ぅ。春だねぇ」
「春が来たねぇ」
言葉が少ないのに、和やかになる食卓をあたしは知っている。それがどんなにか幸せだってことも知っている。体中に春が広がる。いつもこれで、ぐちゃぐちゃの地面は帳消し。感謝に変わってしまう。
だってさ、あたしがグズグズと駄々こねしている間も、ふきのとうたちは、雪の下の大地から養分をもらい、次の季節への準備をしていたのだものね。
小さいけれど、土やお日様の恵みがギュっと詰まっている塊をいただいて、あたしたちの体の一部になるんだよ。
ありがとう、土。あたしの中の季節が変わった。
「行者ニンニク、そろそろっぽいよ」
母が言う。
明日は山歩きしようかな。980円の長靴を履いてね。
行者ニンニクの醤油漬けを想像しながら、あたしは3杯目のご飯をよそった。
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記:浦新裕見子
特集:春待ちのころ…
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