まりこさま
『閉ざされた庭』の謎めいた献辞と引用句、まりこさんはこんなところに注目するんですね。ああやっぱりと、えっどうして、と両方の思いがします。
じつは、このへんは難しくて、訳は付けたけれど、お手上げ、知らん顔していたいところだったんです。
ドゥタンベルに面会したとき、まりこさんのように、C.ヨハネって誰ですか、と質問したら、あまりはっきり特定したくないとの返事でした。ヨハネは数人の人を混ぜ合わせた名前だとも。今日に至るまでの、作家の苦労がちらと想像されました。
また、まりこさんが若い世代に行き届いた理解を示されたことも驚きです。文学は知らないと言いながらのこのクリーンな直球。果たしてうまくキャッチできるでしょうか。
主人公の少年、「ぼく」になって考えれば、この導入はほんとうに「神の電撃」ですね。こんなこと、人生の中で遭遇する人はまれだと思います。そういう、特殊な目に遭ってしまう人がある。何でわたしが?どうして?と叫びたいです。作者はそういう、神から試されるべく選ばれた人としてこの少年を創作したのではないでしょうか。
大げさに言えば、人間代表として。キリストは、人間の罪を代表して身をもって償ってくれましたが、この少年の場合は、もう少し微妙なので、ちょっとわかりにくいのですが、受けた傷が目に見えないということに、苦しみがあるのだと思います。
人は愛する人の苦難をどれだけ真剣に共有できるのだろうか?わたしが「痛い目にあわされた」という記述にこだわるのは、この少年のしようとしていることが、世の中に無防備な自分を委ね、そのときに課される試練を痛々しく思うからです。すでにこの少年は生きながらにして献体で、神のメスが少年の体にさし込まれるその過酷さに心が痛むのです。
いっぽう、この少年には初々しさと、真摯さがあって、読者であるわたしはその身を案じずにはいられません。
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