VIVA ASOBIST

vol.52:菅野米蔵
「視覚障害者のために......」『オーデコ』と菅野米蔵の奇跡の道程

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【プロフィール】
株式会社アイプラスプラス代表取締役社長。
1948年福島県生まれ。72年神奈川大学経済学部卒。アイワ勤務を経て、73年にシステムエンジニアとして日本IBM入社。95年同社を退社し、ソフト ウェア会社メディアグリップを設立、代表取締役に就任。98年盲人用生活補助装具の研究に着手する。2000年イーシステム取締役副社長。01年盲人用画像認識装具を特許出願(03年特許取得)。05年株式会社アイプラスプラスを設立。09年4月「AuxDeco(オーデコ)」が製品化され、発売が始まる。

日本発のテクノロジーを駆使した、視覚障害者用の福祉機器「オーデコ(Aux Deco)」が、今世界中で大きな反響を呼んでいる。
これまで視覚障害者(特に全盲者)がものを認識するには、直接に対象物を触ったり、白杖などで探ったりするしかなかった。ところがこれを使うことで、全盲者であっても、触らずにものの形を認識できるのだという。
まさに、見えないのが当たり前と考えていた障害者の未来に、希望をもたらす大発明。その技術を開発したのが、株式会社アイプラスプラス代表取締役の菅野米蔵さんだ。そこで菅野さんに、エポックメイキングともいえる、オーデコの開発にいたるまでの人生について語ってもらった。

vol.53_01.jpg もともと機械いじりが好きだった
「実は、私は文系出身なのです。ただ、子供のころから、機械をいじるのが大好きで、ラジオや無線機などをよく作っていましたね。その一方で、実家が呉服屋だったので、出入りしていた問屋さんからいろいろと外国の話を聞いて、将来は貿易の仕事をしたいと思うようになったのです」
大学を卒業し、機械が好きだったこともあり、電気機器メーカー「アイワ」に就職。当時、製品の90%が輸出向けだったアイワであれば、貿易にも携われるのではないかという夢を抱いていた。しかし、折しもドルショックに見舞われ、輸出が激減して、国内営業の仕事に回されてしまったのだそうだ。
「それでも、必死で頑張って、担当していた量販店でかなりの営業成績を上げました。しかし、当時はまだ若かったので、営業ってこんなものかと自分自身で納得してしまい、1年後に退社することにしました」
菅野さんの場合、こうと決めたら行動は早い。新聞の求人広告に載っていた「日本IBM」の中途採用に応募し、見事に受かったのだ。転職がまだ珍しかった時代に、なんと思いきりのいい決断だろうか。

日本IBMでエンジニアに転身
機械が好きなので、当然ながらコンピュータにも興味があったという菅野さん。日本IBMという新しい職場では、「もう営業の仕事はいい」と思い、コンピュータの性能を追求する、開発系のシステムエンジニアの仕事を希望した。
「入社してからは、狭い部屋に閉じ込められて、莫大なコンピュータの英文のマニュアルを読む日々が続きました。コンピュータのことはまったく知らなかったので、イロハのイの字から勉強したのです。かなり辛かったけれど、とにかく3年間は頑張ってみようと思いました」
1年もすると、コンピュータを自在に使いこなせるようになり、プログラミングが楽しくなってきたそうだ。そんな菅野さんに、まるでご褒美のような仕事が舞い込んできた。29歳のときに、ドイツで、世界各国のエンジニアと一緒に半年にわたって開発を行なうプロジェクトに派遣されることになったのだ。念願の、初めての海外渡航だった。
さらに、34歳のときには、数多くの先輩よりも先に、3年間の任期で再びドイツへ赴任。ドイツの研究所の人が、以前の仕事ぶりを評価してくれたようで、「菅野さんを寄こしてくれ」と指名してくれたのだそうだ。「無我夢中でやったことを、人はちゃんと見ていてくれるのだなと思うと、すごく嬉しかったですね」と菅野さんはいう。

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オーデコのさらなる発展の
拠点であるアイプラスプラス
独立してソフトウェアの会社を設立
帰国後は、また営業系の仕事もするようになったが、このときは営業がすごく楽しく感じたそうだ。そして、名古屋支店に赴き、システム室長としてSE(システム・エンジニア)たちをマネジメントする役割も果たした。この名古屋時代、忘れられないのは、ボーイング社とのプロジェクトで、新型ジェットの開発に携わったことだそうだ。
本社に呼び戻されたのちは、役員補佐の仕事を任される。この後、通常であれば、役員への階段を順調に上っていくことに、誰も疑問を抱かない。しかし、菅野さんは違っていた。95年に日本IBMを退社し、自らソフトウェアの会社を立ち上げたのである。
「無謀な性格といわれても仕方ないのですが、もともと独立心が強かったのでしょうね。ゼロから自分で会社をやりたいと……。その会社が軌道に乗ってきたときに、今度は友人が立ち上げた会社を手伝ってほしいといわれました。顧客管理システムを作る会社だったのですが、時代の波に乗ってどんどん成長していき、01年には上場することになったのです。はじめは、たまに会議に参加する程度でいいと思っていたのが、そうもいかなくなり、こちらの会社では取締役副社長として、100人ほどのSEと営業社員を取りまとめていました」
上場会社を切り盛りする、多忙な日々。しかし、このころには、菅野さんは平行してオーデコの研究も進めていたのだそうだ。

視覚障害者のために役立つものを開発したい
「きっかけは、千葉の自宅から東京に通勤する途中で、偶然に見かけた光景でした。盲学校の生徒が、バス停に並んでいたのです。季節はちょうど春で、誰でも心が躍るような気持ちのいい季節なのに、その生徒はおどおどして不安そうに見えました。『それは、周りが見えないからではないだろうか』と思った私は、この子のために何かやってあげたいと思ったのです」
それまで福祉機器の開発に関わったことはなかったが、もともと機械をいじったり、ものを作ったりすることが大好きだった菅野さんは、次第にその思いを膨らませていった。そして、月に一回、高校の物理学の先生の定例会に参加し、いろいろな実験をしたり、わからないことを尋ねたりした。そうこうするうちに、視覚障害者用感覚代行機のアイデアがまとまってきたので、特許を出願することにしたのだそうだ。

この機械のしくみを、ごく簡単に説明すると、額にとりつけたヘッドバンドに内蔵されたカメラが、とらえた映像をコンピュータで画像処理し、輪郭だけを取り出し、電気刺激として額に伝えるというもの。こうしたアイデアは、どこから生まれたのだろうか。
「あるとき、まったく耳が聴こえない、イギリス人の女性パーカショ二ストが、オーケストラと演奏しているのを見たのです。彼女は裸足でステージの上に立ち、床の振動を感じとって楽器を奏でていました。人間って素晴らしい感覚を持っているのだなと、改めて思いましたね。この場合触覚を応用しているのですが、それによって足の裏が聴覚になるなら、おでこを視覚にできるのではないかと考えたわけです」
低周波マッサージ器を原点として、アイデアを固めていった。しかし、もっともっと煮詰めていく必要があることを菅野さんは感じていた。というのは、菅野さんの手法だと、電気刺激が強すぎて、痛みが残るのが問題だったのである。

そんなときに、新聞で、東京大学大学院情報理工学の舘暲(たち・すすむ)教授の研究のことを知る。「スマートタッチ」という電極の上に指をのせると、触覚によって図形の変化がとらえられるというものだ。
「これだ!と思いましたね。さっそく東京大学に電話し、舘教授と連絡を取り、研究室に会いにいきました。そして、『一緒に研究してくれませんか』とお願いしたのです。忘れもしない03年9月のことです」
舘教授は、触覚やバーチャルリアリティ、ロボットなどの世界的権威として知られている。盲導犬ロボットの開発に取り組んだ経験もあり、障害者の役に立つのであればと、喜んで共同研究を引き受けてくれたのだそうである。そして、なんとその1カ月後に念願だった特許がおりる。「まさに、これは神様が後押ししてくれているのではないかと思いました」と菅野さんは語る。

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街を歩き、数字を認識……改良も続く毎日
写真下はアメリカン・ヒューストンでの研究の様子
視覚障害者が「見える」と言った
特許取得とともに、視覚障害者のための福祉機器開発をライフワークにしていこうという思いを強くした菅野さん。それからは、試作品づくりのために徹夜したり、奔走したりの日々が続く。そして、上場企業の役員の仕事を、1年がかりでほかの人に引き継いで退社し、05年に福祉機器開発・製造のための株式会社アイプラスプラスを設立。
このとき、菅野さんは56歳。普通なら、まもなく定年という年齢だが、まだまだ引退するどころか、オーデコの製品化に向けて、溢れんばかりのエネルギーを費やしていった。

試作品づくりの過程では、千葉県立盲学校の協力を得た。そのときに印象深かったのは、当時27歳の男子生徒の反応だったという。
「オーデコの試作品をつけてもらい、いろいろなマグネットをホワイトボードに貼り付けて、形を認識できるかどうかを実験していたのです。すると、その男子生徒は、三角形のマグネットを貼り付けると、『三角形ですよね。僕見えます!』と叫んだのです。彼は、先天性視覚障害者でしたから、手で触らないでも三角形だとわかり、さらには『見える』という言葉を使ったこと自体すごいことなのです。この言葉は生涯忘れられませんね」

その後、アメリカのミネソタ州立盲学校でも、テストをする機会を得た。生徒たちにつけてもらうと、みんな大喜びだったという。ただし、ひとりの全盲の女性は、なぜか最初はつけることを拒んだが、最終的に装着すると、あちこち歩き回り出したそうだ。
「彼女は周りにあるものを、いろいろと認識していたのだと思いますが、そのうち手を上げて、5本の指を額の前にさらしたのです。その次に、『I can see my fingers!』と叫びました。
彼女はこのとき自分の動く指を初めて"見た"わけです」
普通、視覚障害者に認識できているかどうか尋ねるときには、「feel」や「distinguish」という言葉を使うということだが、自分から「see」という言葉を発してくれた……このときは「やった!」と思ったと菅野さんは言う。

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視覚障害者へ光を注いだ『オーデコ』
障害者の生活の可能性が広がる社会の実現が夢
舘教授との共同研究の末、今年の4月にはついにオーデコが製品化され、販売が始まった。多くのメディアからも、「ミラクルな発明品」として取り上げられている。これを用いることによって、きっと視覚障害者の生活の可能性が大きく広がることだろう。
それにしても、上場会社の役員を辞めてまで、福祉機器の開発に献身する菅野さんの情熱の源泉はどこにあるのだろう。
「人間は、90%もの情報を視覚から得ています。それができない視覚障害者の人たちは、健常者が想像もつかないほど、大変な思いをして生活をしています。しかし、オーデコをつければ、生まれてから経験したことのない三次元の世界を味わえるのです。
例えば、エレベータの扉は危険なので、これまで触ることができなかったはず。それが、開閉を認識できるようになり、安心して乗り込めます。また、今までは水槽があると、触ってその形がわかったとしても、その中で泳いでいる魚までは認識できなかったでしょう。ところがオーデコによって、水槽のガラスの向こうに動くものがいることもわかるのです」

ただし、現在のオーデコは、中途失明者が使うと、まだまだ改良する必要が出てくるかもしれないという。
「中途失明者の人たちは、以前は文字が読めたのが、読めなくなってしまうのが一番困ることだと思います。そこで、もし要望が出てくれば、手もとにスイッチを持って、カメラをズームアップし、文字が認識できるようにするというようなプランも考えています。このズームアップ機能があれば、公衆トイレで、男女のマークも認識できるようになるでしょうし、より多くの場面で便利なことが増えると思います」

vol.53_02.jpg 今年61歳を迎える菅野さん。その夢や開発精神は、まだまだ尽きないようだ。まず身近な夢としては、オーデコのユーザーが各国に広がったら、国際ユーザー大会を開くことだという。そこで情報交換し合えば、視覚障害者の生活の可能性が、さらに広がるのではないかと思っているからだ。
また、夢の夢としては、空を飛ぶのが好きなので、自分の力で飛び上がる装置を作りたいとのこと。
「どの夢を実現するとしても、ひとりでは実現できません。これまでのことを振りかえってみても、いろんな人の協力がないとできないということを実感しています。そう思うと、日々周りの人たちに感謝していますね」
まだまだ現役エンジニアとして、未来に向かってまい進しようとしている菅野さん。実際にお会いすると、実際の年齢よりも10歳は若くみえるはずだ。常に夢を持って、活力的に生きる姿勢が、若々しさにつながっているのかもしれない。











読み物 VIVA ASOBIST   記:  2009 / 07 / 21

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