はいコチラ、酔っぱライ部

皿の上の攻防

2015 / 04 / 28

先日、本棚の整理中に見つけた古い雑誌を読んでいたら平松洋子さんが「取り皿」について書いている文章に出くわした(という表現が妥当かどうかわからないけど、そういう感じだった)。平松さんは「食」に関するエッセイストとして有名だが、彼女の書くおっとりとしているようでどこかに芯の通った文章が僕は好きで、雑誌や新聞に彼女の名を見つけると、つい嬉しくなっていそいそと読み始める。

この「取り皿」について書かれたエッセイもなかなかで、食卓の「取り皿」についての考察や思い入れになるほどとうなずいたり発見することが多かった。

文中には「取り皿というものの存在を知らなかった男性」が登場する。良家出身の祖父がいる家に育った彼は、子供の頃から「箱膳」で食べていたので取り皿を使ったことがないというのである。

その男性と平松さんのやりとりもなかなか面白いのだが、これを読みながらそういえば僕はどうだったっけと記憶をたどって思い出した。そういや僕も取り皿は使っていなかった。

d20150428_pic1.jpg
取り皿に取り分けて食べましょう「ジャガイモと空豆のサラダ サワークリーム添」。
空豆のおいしい季節です
それはおそらく僕が商家に育ったせいで、想像するに昭和初頭に大きな商家への奉公で仕事を覚えた家長である父は「手の空いた人から食べていく」という格好をとる大店(おおだな)の流儀に準じて、自分で家庭を持ったときに箱膳こそなかったものの「それぞれのおかずを一人分ずつ小鉢に盛る」という方式を選んだのではないかと思う。

もちろん「湯豆腐」や「すき焼き」などの鍋物はのぞいてだけれど、子供時代の食卓に「取り皿」はなかった。たとえばある日の夕食を思い出すなら

・白いご飯
・千切り大根と油揚げの味噌汁
・小鉢に盛られたウドとワカメのぬた
・ほうれん草のおひたし
・塩鮭
・ガラスの器に入った苺3粒(食後)

といった具合に、目の前には一汁三菜ほどの小鉢とデザートが並んでいたわけである。

実家にいる間の食卓はそんなものだったが、生まれ育った家を出たあとはひとり暮らしだったからもちろん取り皿はなし。だから「取り皿」の習慣が我が家に導入されたのは結婚後で、すなわち僕の人生に「取り皿文化」を運んできたのは妻、ということになる。

大家族の中で「大皿料理」中心の食卓に育ったらしい彼女にとって、「取り皿」を使って食事をすることがあたりまえだったのだのだろう。結婚という行為は二つの文化が融合することでもある、というごく卑近な例を思いがけず示すことになったわけだ。

ところでこのコラムの最後は「大皿料理が主であるにもかかわらず中国や韓国などの食卓に取り皿がないのは、大皿から取ったおかずを直接ご飯の上にのせる『汁かけご飯文化』が主流だから」という発見で結ばれている。

この発見も「なるほど」と思うのだが、平松さんのすごいところは文章の結論をその発見で終わらせることなく、「取り皿とは日本のご飯茶碗の白いご飯を守る砦であったか」と看破していることで、この日もつくづく「巧いなぁ」と感心してしまった。

そんな「取り皿」についてのアレコレを読みながら考えていたのが、家に友達を呼んで宴会するときの「取り皿の扱い」だ。

たとえば3〜4種類の大皿料理を出したとする。それは「サラダ」、「パスタ」、「煮込料理」などでそれぞれ味付けが異なることがほとんどだから、銘々が取り皿の上に少しずつの料理を取って「乾杯」に及ぶと、皿の上には「サラダのドレッシング」、「煮込料理のスープ」、「パスタに絡んだソース」などが並ぶわけで、しばしの間は皿の上でそれぞれの「領地」を確保していたとしても、グラスを重ねるうちにそれは皿の上で交わり、混ざり合って各料理の固有の味を保てなくなってしまう現象が起きることになる。

もちろんそれが「あっ! この煮込んだ肉にパスタのクリームソース合わせるとメチャクチャ旨い!」とか「へえ、パスタを酸味のあるドレッシングで食べてもおいしいもんだね」などと「新たな味の発見」を生むこともある。

しかし料理を作る側にしてみるとやはりそれは「副次的な味覚」であって、本音はそれぞれの料理の調味を楽しんで欲しいのが正直なところ。各自の皿の上が混沌としてくるにつれて「取り皿を新しくしたい」と思ってしまうのだった。

これはブッフェ形式の立食パーティーなどでもよくあることで、異なる料理を小さな皿の上に少しずつ取ってきて食べるうちに複数の料理の味が混ざってきて、ついひんぱんにお皿を変えたくなってしまう。それが「紙の皿」であれば、料理テーブルの脇に据え付けられるであろう大きなビニール袋へ心置きなく捨てて次の皿を手に取るところだが、直径15cmほどの小さな磁器の皿だったりすると「まだあまり汚れていないのに変えるのは申し訳ない」という心理が働いて、「皿の上のカオス」はますますカオス化するのだった。

思うに立食パーティーのあの皿はもう少し大きなものにできれば取り皿交換の回数はもう少し減らすことができるに違いないのだが、そうは言っても20cmの皿とお酒の入ったグラス、さらにフォークや箸などを立ったまま持って歩くのはなかなかむつかしく、そんなことを考えると立食形式の宴会への参加は、ついつい二の足を踏んでしまうことになるのでした。

これに引き替え「酒に意地きたない」わりにその辺りのこだわりはあんがい薄く、白ワインを呑んだグラスへそのまま赤を注いでもそれほど気にならない。まぁ3ケタ価格のワインばかり呑んでいるせいもあるけれど、お酒に関して言えばその故事来歴などのウンチクはプロに任せて、自分はごくごくあたりまえに普段着のつきあいをしたいと考えているからだ。

もちろんまるきり「どうでもいい」と思っているわけではなくて、やっぱりちょっと程度のいいボトルの栓を抜いたときには精進潔斎(しないけど)、正座(しないけど)でグラスや盃に注ぎたい。たまに手を出す4ケタのワインを抜くとついデキャンタの瓶を出したくなります。

これはデキャンティング(ワインを別の瓶に移して空気に触れさせる作業)して「ワインの奥底にある香りすべてを引き出してやる!」とまるでけんか腰、「ケツの毛まで抜く」(失礼)ような気持ちになるからで、やっぱり「酒に意地きたない」んだねぇ……と自己確認したところで今回のかんたんレシピは「ジャガイモと空豆のサラダ サワークリーム添」。

名前はエラそうだけど、単に茹でたジャガイモと空豆を塩・胡椒で味付けしてオリーブオイルで和えたとこに買ってきたサワークリームを添えるだけ。カンタンだけどその三位一体の味わいがたまらない一品です。空豆のおいしいこの季節、ぜひどうぞ。

d20150428_pic2.jpgまぁこれなら取り皿へ取ってもわりと「自立」しているので他の料理に影響を及ぼさない。むしろ取り分けたトマト煮込なんかのスープがジャガイモやサワークリームと合わさったらチョイとオツな味になりそうだ。ボルシチにサワークリームや生クリームを入れたりするからたぶん鉄板でおいしいはず。そんな偶然もたまにはね、と書いて今回もこの辺で。

次回は5月12日更新の予定です。

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